第16話 ミヘル

サンカルロス少年時代の話。15話の続き。

サンカルロスには、1人の親友がいた。
家が貿易をやっているとかで、サンカルロスが5歳のころにこの街、パンプエールに越してした男の子だ。
名前はミヘル。
サンカルロスはどっちかというと、わんぱくで活発な子供だったが、彼はその逆で、控えめで大人しく家で本を読んでいる方が好きな性格だった。
サンカルロスは越してきた少年が1人でいるところを見て、それではつまらないだろう、ということで一緒につれて回ることにした。まぁ、早い話が子分にしたのだ。
最初は困惑していたミヘルだったが、やがて自分の役割に満足してサンカルロスを慕うようになるのにそんなに時間がかからなかった。

サンカルロスは釣りはへたくそなくせによく川に釣りにいっていた。性格的に会わないというかすぐに釣れないとすぐに飽きてしまうので上手くなるはずもなかった。でも、この街の少年達の間では、釣りができるやつが、つまりかっこいい、ということになっていたのでそれなりに練習をしていたのた。
たまに釣り上げる魚を見て、ミヘルは言った。
「あれは、シラタチだね。もう溯上してくる季節になったんだね。」
サンカルロスは、難しい言葉を使って語るミヘルの博識にはいつも感心していた。
草木の事や、星空の事、遠い世界の事、ミヘルに聞けばほとんど教えてくれた。どうして、そんなにモノを知っているんだ?と聞けば全部本を読んで知ったとの事だった。その時から、本を読んでみるのも悪くないなとサンカルロスは思うようになった。
「さかな。」
ミヘルは突然、サンカルロスに言った。サンカルロスは奇妙な言葉を聞いて、ミヘルを見た。
「これはね『魚』って言う意味さ。遠い国の言葉でさ。そして、これ君の名前の頭の文字を取ったのさ。」
魚釣りのへたくそな『さかな』か。皮肉か。サンカルロスは、にやと笑って竿を振った。
「‥‥結構、考えたんだけどね。呼び名。」

パンプエールは海沿いの古い街で、中央の市庁舎から八方に伸びる通りから時代がかった石造りの建物が並んでいる。人口は建物の数よりはずっと少なく、街は静かだった。この街のどこにいても見えるものに妙な形をした「遺跡」があった。「パンプエール市23号遺跡」とか、「パンプエール塔」とか呼ばれていた。
丘の上にある遺跡は、森に囲まれていていつからそこにあるのかわからないその建物は不思議なほど溶け込んでいた。サンカルロスやミヘルの家からは、それほど遠くなくこの遺跡の森は恰好の遊び場だった。
「ぼくはね。」
ミヘルは遺跡を見上げながらサンカルロスに言った。
「この遺跡がいったいいつからここにあるのか、これがなんだったのか、いろんな事を想像するんだ。」
サンカルロスにとっては、生まれた時からそこにあるものであって、それ以上のものでもなかった。そう、山があって、森があって、そしてこの遺跡があるということだけだった。そんななんでもないものが、ミヘルにとっては、とても面白いものらしい。サンカルロスも遺跡を見上げた。
「人が作ったものなのに、これがいったいいつ作られたのか見当もつかないなんて、不思議だねぇ。」
ミヘルは上気して腕を組んだ。
「ぼくは、この遺跡の謎を見つけてみたい。だれも知らなかったことをぼくが発見するんだ。ぼくが一番最初に秘密を知るんだ!そう考えただけで、ぼくは嬉しくてわくわくするんだ。」
サンカルロスは、黙って聞いていたが、ミヘルにならひょっとしたらそれは出来る事なんではないか、と思った。ただ、子供心にその時はこのぼくが手伝ってやらなきゃだめだなとも思った。普段はおとなしいくせに、こと遺跡の事になったらミヘルは情熱的に自分の夢を語りだす。サンカルロスは、このミヘルの少し大人びた様が、自分にはないいたく格好の良いものに見えた。
   
                    ◆

ミヘルは喘息を持っていた。学校の勉強は良くできる彼だったが、休むことも多かった。サンカルロスにしてみたら、心配だったがそれほど気にとめることもなかった。なぜなら、ミヘルはいつも別に平気、全然平気と言っていたのだ。それに、サンカルロスの前では一度もひどい咳もしたこともなかった。だから、大人になったら自然に治るものとそう思っていたのだ。
だから、今日初めて、サンカルロスの目の前でミヘルが喘息の発作を起こした時は、驚いた。
こんなにひどいミヘルの姿をみたのは初めてだった。サンカルロスは、彼を抱えてまず彼の家につれていった。彼の母親は深刻そうにミヘルを抱きサンカルロスに礼を言って家の中に入っていった。
サンカルロスは、毎日学校が終わってから、彼の家の前にきた。母親は困った顔をしていたが、心配ないということと、いつもうちの子がお世話になっているという変哲のない挨拶を受けた。
5日目、ミヘルは学校にやってきた。少しやつれた顔をしていたが、いつもの彼だった。ミヘルはサンカルロスに言った。
「ぼくはサンカルロスといっしょにいると咳がでないのさ。」
サンカルロスは、この間の咳はひどかったじゃないか、みたいな表情をしたら彼は
「全然、たいしたことないよ。」
と笑ってみせた。サンカルロスは、一応は安心した。

それから3日あと、ミヘルは学校にこなかった。
サンカルロスは、いつもとは違った不安を感じ、彼の家に行ってみたが留守だった。
次ぎの日の朝、サンカルロスは担任の先生からミヘルの入院について聞かされた。喘息の発作がひどく、夜のうちに病院に行き、そのまま入院したそうなのだ。サンカルロスはミヘルの言葉を思い出す。そう、きっとたいしたことないのだ、きっとまた会えるのさ、その程度くらいにしか考えていなかった。
サンカルロスの母親からミヘルの死を聞いたのは、学校から家に帰ってきたその時だった。玄関で母親はサンカルロスを抱き締めて静かにゆっくり、言い聞かせるように、言った。サンカルロスは、黙って聞いていたが突然の衝動、ミヘルの家に走っていった。後ろから母親の呼ぶ声が聞こえた。
信じられなかったが、自分の母親は嘘をつくような事はしない。でも、信じたくはなかった。
息を切らせてミヘルの家まで来たが、そこはひっそりしていて誰もいなかった。サンカルロスは、ただそこに立ち尽くしていた。身体を流れる汗と突き上げるような心臓、無理にでも息を整えて自分を落ち着かせた。

夕方、日が落ちるまで家の前にいたが、結局誰も帰ってこなかった。
どうやって帰ったかもわからず、サンカルロスは母親の夕食の呼び声も耳に入らず、ただ自分の部屋に入りベットに倒れこんだ。空気は乾いているはずなのに、胸のあたりがじとっとしていて、重かった。なにも乗っていないのに、息苦しくて小さな呼吸を何度もくり返した。
ミヘル、いったいどうしたのだ、お前、たいしたことないって言っていたじゃないか。
嘘をつかれた。そんな気持ちがサンカルロスに沸き上がってきた。
くそっ、今度会ったら‥‥
会えないのだ。
サンカルロスは考えるのをやめた。

サンカルロスは目を覚した。
頭がはっきりせず、口の中が粘っこい。どうやら夕方からそのまま寝てしまったようだ。
窓の外から白い光が射し込んできている。見れば、大きな満月が他の星を隠してしまう勢いで輝いていた。
変な時間に起きてしまった、まだ夜じゃないか。
サンカルロスは、起き上がって窓の外の月を見た。漆黒の夜に強烈な白の月。
砂漠の民は月の色を「銀」といい、遊牧の民は「白」と言った。海を渡る民は「黄」と言い、農耕の民は「赤」と言った。でも、ぼくは‥‥
「月は月にしかない色を持っているんだ。だからぼくは、月の色は月の色としかいえない。」
サンカルロスはつぶやいた。ミヘルがいつか言った言葉だ。
いつまでも月を見ていた。窓を開けると、気持ちのいい風が吹いた。
ふと、思い出すように本棚に向い、少ない本の中でちょっと場違いなほどの分厚い本を手に取った。立派な赤い表紙の本でそこには『はるかなる太古』と書いてあった。ミヘルの好きな「太古考古学」の本だった。
この本、3月前のサンカルロスの誕生日にミヘルがくれたものだった。
いままでサンカルロスは、この本を読むことはなかった。文字ばっかりで、億劫だったのだ。ミヘルに感想を聞かれたらどうしょうかと心配していた、そんなものだった。
初めてページをめくる。
一番最初のページには偶然か大きな満月の絵があった。そしてそのまん中に一言、こう記されていた。
『月は全てを見ていた』
サンカルロスは窓に駆け寄り、空を見上げた。本の絵を同じ、満月だった。
満月の光りはあたりを照らして、真夜中の街を照らしていた。しかし、やっぱり本の文字を読むには十分でなく挿し絵や写真のあるページをぱらぱらとめくっていった。すると、分厚い大きな本だからまん中までめくったら重みで手を抜けて落しそうになった。慌ててサンカルロスは受け止める、すると裏表紙が開いた。そしてサンカルロスはそこになにかが書いてあるのを見つけた。月明かりの下、それを読み、サンカルロスは動きが止まった。
『サンカルロス・カンティハノ・デラ・ナランハ(さかな)くんへ、誕生日、おめでとう』
サンカルロスよりは上手だが、子供の書くちょっとバランスの悪い文字だった。ミヘルの字だ。
「‥‥さかな、くんへ、か‥‥。」
サンカルロスはまた、空を見上げた。大きな満月がそこにあったが、今度はやたらと滲む、光りが揺れる、真円の月のはずが横に歪む。頬を流れた水滴が手元の本にいくつも落ちた。そこにも月がいくつも映った。
サンカルロスは床に寝転んだ。月がいつまでも見えるように仰向けになった。胸には本をしっかり抱き締めていた。

目覚めたら、もう昼前だった。朝がたに母親が床に寝ていたサンカルロスをベットに寝かせた事も知らず、いつものように起き上がってふと気が付いた。
そうだ、学校は‥‥
今日は平日、もちろん学校は休みではない。太陽はもう高いし、行っても大遅刻だし‥ひょっとして休んでも良かったのだろうか?
わざと、あることを思い出さないように明るく考える。でも、少しでも思考が途切れるとその隙間からどっと流れ込んでくる鉛のような気分があった。ふと、部屋のまん中の丸テーブルの上を見るときちんと畳まれた洋服があった。あまり裕福ではないサンカルロスの家でいわゆる「よそ行き」とされていた一番良い服だった。横には、こんなメモがあった。
『ミヘル君の家に行っています。正午に教会においで。  母』
サンカルロスは洋服を持ち上げてみた、樟脳のにおいがする。
あいつはおれがこんな服着て来ても喜びゃしないよ。
サンカルロスは、普段着のまま家を出ていった。正午はもうすぐだったが、教会には行かず、学校にも向かわなかった。足を向けたのは、パンプエール塔だった。
あいつは、あいつの家にも、教会にもいないんだ。あいつがいるのは、ここだ。
奇妙な形をした、パンプエール塔の下に着いたサンカルロスは、そのまま座り込んで目を閉じた。
あいつがいるのはここだ、あいつが自分の夢を話したここなんだ。
森を抜ける風がパンプエール塔に流れてくる。風の底に座るサンカルロスにも流れてくる。
そこにミヘルがいると信じれば信じるほど、サンカルロスには、ここにミヘルがいると思った。
そして、サンカルロスは1つの事を気付いた。
自分がミヘルのことを忘れなければ、ミヘルはいつでもここにいるのだ。だから、さよならなんていわないぞ。ミヘル。
サンカルロスはその日、パンプエール塔が黄昏れるまでそこにいたのだった。

           ◆

さかなの昔ばなしをテーブルに座って聞いていたライルは、涙のたまった目を照れ隠しながら、
「お茶、煎れてくるね。」
と言って席を立った。テーブルの上には、『はるかなる太古』赤い本が置いてあった。ライルが興味をもった本だったのでさかなが貸してやったのだった。
そして、つい昔の話をしたのだ。
サンカルロスが学者を志した日の話だった。
そして、今さかなは満月ヶ原にいる。不思議なものだ、なぁ、ミヘル。
ふと、気が付くと、となりの部屋の奥で満さんが、ひげだらけの顔をくちゃくちゃにして泣いていた。
「ま、満さん。」
「わしゃのぅ、こんな話によわいんよ。のう。」

                          おしまい